ご遺族を見つけるために出した手紙

遺族への手紙

知覧特攻平和会館初代館長 板津忠正

遺族に宛てた手紙

はじめに

これは、板津さんが遺族に宛てた葉書で、住所不定等で戻ってきたものです。葉書は、市役所に勤めながら年300通以上書かれました。葉書の裏には800字から1000字近い文字で埋め尽くされています。こうした葉書は、名簿の住所が間違っていたり、引っ越してしまった後だったりでまともに届いたのはごく一部だったそうです。ここでは、戻ってきた葉書の一部を紹介します。(・・・管理人)

遺族の方に宛てた手紙

拝啓 突然お手紙をお出しすることをお許しください。昨年4月北海道倶知安町南2条2丁若林好一様宛てにお出しした葉書が戻り同年10月倶知安役場を訪ね菩提寺東林寺へ寄りましたが最もよく知るお庫裡様は、京都へ出かけ不在断念しました。最近表記住所が判明しましたので只々着くることを念じつつ書いております。私は元民間パイロット養成機関がある米子航空機乗員養成所出身の特攻隊員として鹿児島県川辺郡知覧町の知覧基地より出撃しながらエンジントラブルのため不時着生き永らえ、現在特攻慰霊と後世に真実を伝えるために調査したり遺族を捜し訪問したり、文通によって当時の状態や現在の基地の模様をお知らせして亡き隊員の霊を慰めている者です。

若林富作少尉が第107振武隊員として4月13日隊長大内清中尉粟津重信井口北村早苗各少尉と共に知覧基地を13時10分出撃沖縄特攻攻撃のため散華なされこのことは同期生、整備員、知覧住民等お知らせにより御承知かと存じますが、多くのご遺族は沖縄にての戦死は知っていてもいずこから飛来しどこから出撃して行ったことすらご存じなく、また基地跡には、特攻隊の崇高なる偉勲を遺訓として後世に伝えるための遺品館また御霊をまつる特攻平和観音堂、特攻銅像等が建立され、毎年5月3日慰霊祭が盛大に行われております。私も毎年必ず参列しておりますが本年は37回忌のこととて全土よりご遺族120名が参列特に盛大にとり行われました。

この葉書にお手数がてらお返事下さればさらに詳しく写真等によりお知らせいたします。このことは私が独自で行っていることで金銭的には決してご迷惑をおかけいたしません。ご判読の上ご返事をくださるよう鶴首致しております。なお返事のおり少尉の生年月日略歴等ご教示下されば幸いで御座います。第107振全員の遺影は既に私の手によって送られ展示されておりますが、単身の遺影、遺書、絶筆等少なく、残念に思っております。時経つに次第に散逸する貴重な資料、せめて複写コピーなりとご協力もらえないものかと存じております。敬具

遺族に宛てた手紙

遺族の方に宛てた手紙

拝啓 突然お手紙をお出しすることをお許しください。旧住所が最近になって判りましたので只々葉書が着くことを念じつつ書いております。私は元民間パイロット養成機関がある米子航空機乗員養成所出身の特攻隊員として鹿児島県川辺郡知覧町の知覧基地より出撃しながら機関故障により不時着生き永らえ、現在特攻慰霊と後世に真実を伝えるためにご遺族を捜し訪問したり、文通によって当時の状況や現在の基地の模様等をお知らせしたりして供養しているものです。

土屋光男伍長が第48振部隊員として5月28日鈴木誠一少尉と共に知覧基地を発進。この日知覧から28機出撃、私の隊もこの日で月が翼を照らして美しい日でした。沖縄艦船特攻攻撃の為散華なされ(他の48振武隊員は6月3日と6月8日に出撃)このことは一報、同期生、住民、整備員等の報によりご承知とは存じますが、多くのご遺族は沖縄特攻にての戦死は知っていてもいずこから飛来しどこの基地より出撃して行ったことか全くご存じなく、また知覧基地跡には、特攻の偉勲を遺訓として後世に伝えるための遺品館またその霊をまつる特攻平和観音、特攻銅像が建立され、毎年5月3日特攻戦没者津追悼式がこの地にて盛大に行われております。

既に当局よりのご案内や他よりの連絡により総てご存じならばよろしいのですがこの葉書が着き、ご返事下されば更に詳しく写真等によってお知らせいたします。このことは私が独自に行っている事で金銭的には決してご迷惑をおかけ致しません。ご判読の上ご返事くださいます様鶴首致しております。なお故少尉の生年月日は大正13年9月11日でよいかご返事の折戒名略歴等ご教示下されば幸いで御座います。

遺族に宛てた手紙

copyright 2010-板津じいちゃんガンバの会- All rights reserved.このホームページに記載されている記事・写真・図表などの無断複製・無断転載を禁じます。

corporated by felice creato

Last Up Date: 2010年9月30日 木曜日 6:27 pm